昭和20年3月10日10/03/2005

戦後間もなく本所に生まれ育った私の想いです。
昭和20年3月9日から10日にかけての深夜、米陸空軍が東京下町を空襲してから今年は60年目です。

私の住んでいるところは東京都の旧本所区です。去る3月6日NHK総合の「NHKスペシャル」で放映された「そして下町は消滅した〜東京大空襲・60年目の真実」で描かれた、その日に多数の犠牲者を出した地域は実に私の住まいの周囲で、番組に登場した「二葉国民学校」は私の母校でございます。

私が小学生の時はまだ戦争が終わってから10年そこそこ。あの日猛火に包まれた小学校の建物は一部が修復されてそのまま使われていたと思います。思えば多数の死者を出したプールもそのままではなかったでしょうか(在学中に改修されたと思いますが)。町にも戦争の跡は残り、すぐそばにあった日進国民学校は焼けたまま罹災者住宅となっていて同級生もここに住んでおりました。この学校の1階には元は宿直室に付属した浴室だったと思われるタイルの壁があって、ここには「人間の脂だ」と子供たちの噂になっていた黄色い大小のしみがありました。町中には金庫工場の焼けた跡やらが残り、空き地の地下室には茶色の水がたまっていて気持ち悪かったです。小学校の前で水道工事をしたら防空壕の中で横死したと思われる人骨が出てきたり、日進小学校の地下からも鉄兜をかぶった白骨が発見されたりしました。戦後15年くらいは経っていたのでどうして今頃見つかったのかといぶかったものです。そう言えば「鉄兜、欲しい」と思ったっけなあ。子供の頃からそちら系だったようですが、とんでもない発想をしたものです。

亡父は当時壮年で、東京で仕事をしておりました。関東大震災とこの大空襲を生き延びた人なのですが、あまり話を聞いておりませんで残念です。
憶えているのは、その日か前の日に新潟に疎開させていた母親が寂しくて戻って来たのを大八車に乗せて品川?まで逃げ、「こんな時に帰って来るなんて子不幸な親だ」と言ったという話や、日進国民学校のタイルの黄色いしみを「あそこで親子が立ったまま燃えていたよ。まるで田舎のお婆さんが立ったまま小便するような格好で」と言う話。また蔵前橋通りの商店街にある、何度代が変わっても長続きしない店のことを「あそこでも立ったまま人が燃えていたなあ。だから長続きしたいんだよ」ということなどでしょうか。「震災の時は被服廠跡(現在東京都慰霊堂)で沢山死んだものだから、みんな両国の方には逃げなかったんだな。でも戦災の時はこっちの方が助かったんだ」今でも昭和初期の立派な木造建築が残る、江戸東京博物館裏をあるくと亡父の言葉が思い出されます。
近所の奥さん(そう言えばお宅にはまだ防空壕が残っているはず)の思い出にも、「どこの子かも知れない子供を助けたのよ。お母さんは死んじゃって。しばらく面倒をみてあげようと思ったら、翌日陸軍記念日のパレードがあって、その中にほんとに偶然にお父さんがいてね」というのがありました。

昭和20年。アメリカの一部の人間(であると信じたい)はこの年にわが民族の鏖殺を図りました。この一晩だけで亡くなった市民は10万余を数えるといいます。元はと言えば国民の生命財産を守るという国家の使命を放擲したわが国指導層の無策であるとはいえ、まことにむごいことをしたと言わざるをえません。
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